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2006-09-26

今月の映画 「トリスタンとイゾルデ」


映画トリスタンとイゾルデ


コーンウォールの領主マークを育ての父に持つ勇敢な騎士、トリスタンは、宿敵アイルランドとの戦闘で重傷を負う。敵国アイルランドの海岸に流れ着いた彼は、アイルランド王の娘イゾルデにかくまわれ、献身的な介護を受ける。粗末な海辺の小屋で過ごす濃密な時間のなかで、ごく自然に結ばれるふたり。だが、運命の女神は、別れよりも残酷な試練を彼らに用意していた。イゾルデとマークの政略結婚。彼らの想いを利用しようとするアイルランド国王と内部に巣くう裏切り者。

すぐそばにいながら見つめることすら許されない苦しみに耐えかねた彼らの想いは、様々な思惑を巻き込んで国を滅ぼしかねない危険なものへと突き進んでいく・・・・。


「ロミオとジュリエット」の原典になった、史上最も美しい悲恋物語、だそうである。


主人公二人の突っ走りぶりは確かに”ロミジュリ”。

周りの迷惑顧みず突き進んでいく。すっごく迷惑な人達。(爆)


初々しい恋愛は見ているだけで微笑ましいものだが、ロミオとジュリエットの場合の家同士のいがみ合いはまだしも、こちらは一国を滅しちゃいそうになるんだからまじで洒落になってません。(爆)

ホント、自分の立場をもう少し考えようねと思わず突っ込みそうになる。


「愛は死より切なく、そして尊い」←映画のキャッチコピー

いやこれは愛っつーより、まだ「恋」なのでは。

一国のお后様が「あなたに会えなければ死んでしまう」なんて言っちゃーだめっしょ。(爆)


「愛」っていうのは相手の幸せば一番、「恋」は相手を手に入れることが一番。相手の幸せが主体か自分の望みが主体か、似ているようでこれが全然違うんだなー。

もしも本当に「愛」にまで昇華していたのなら、少なくともあれだけの悲劇になる前に引き戻ることができただろうに。

そう思うと確かに悲劇ではある。


トリスタンを演じたジェームズ・フランコの苦悩な美声年もいいけれど、イゾルデを演じたソフィア・マイルズがとてもいい。

最初スクリーンに出てきたときは、そんなでもなかったのにどんどん綺麗に美しく見えてくる。なんていうか、生命力?に満ちあふれた姿は目が離せない。

「パイレーツ・オブ・カリビアン」でブレイクしたキーラ・ナイトレイなんかもそうだったけど、つくづく女性の”美”というのは外見の美醜だけではないなあと思ってしまう。(負け惜しみではあーりません!(笑))

キラキラと輝く瞳、豊かな表情とあふれる感情、そして発散する生命力。もし、イゾルデが美しくともただお人形のような美女であったら、トリスタンにしろマーク王にしろあれだけ惹かれただろうか?命の輝きにあふれた彼女だったからこそ、マーク王が政略結婚の相手である彼女に本当に惹かれ「彼女につい見とれてしまうのだ」と言わしめることにも納得できるのだろう。(言われてみたい~)

これは女性だけでなくたぶん男性にも言えることかもしてない。

結局影の存在から脱出できなかったマーク王の甥っ子メロードなんかもまさにこれっぽい。ハンサムだし血統もよくたぶん頭も良く剣の腕もたって非の打ち所のない貴公子なのに、どこかで存在感が薄いというか、受け身の印象しかない。

まあ生まれつきの雰囲気というのもあるので一概には言えないけれど、動物は強い子孫を残すために力の強い者、生き残っていきそうな者、に自然と惹かれるようにできているのだとと聞いたことがある。「なんかいいことないかなあ」「なんでオレの価値を分からないかなあ」なんてただ手をこまねいているようでは、どれだけ外見が格好良くても異性には以外とモテない可能性、大なのかも。(笑)




それにしても、この映画ではアイルランドが相当な悪者に描かれているが、IRAが見たらテロでもおっぱじめそうで密かに心配になる。(だいたいがアイルランドではイギリスのせいで政治的にも経済的にも苦労させられてきた、という意識が強いはず)

冒頭のモノローグなんて、おいおいちょっと、と私でさえ思ったんですけど。映画館で暴動が起こっても知らないよ?(汗)

ついでに言えば、アイルランド語のはずでは?通訳いらないの?(苦笑)


まあ、全てが伝説であり、あくまでおとぎ話だと言えばそれ以上言及することはないし、チェコで撮影したという美しい風景と相まって物語世界には充分浸れるからこれはこれでいいのかも知れない。

歴史の視点なんて色々なものがあるわけだからね。



「ロミオとジュリエット」にしてもこの「トリスタンとイゾルデ」にしても”幼い恋”と言えばそれまでだが、最後は死によって”終わらない恋”のまま幕が下りてしまった。

だからこそ、その幼さに呆れながらも私達は惹かれてやまないのかもしれない。

始まった時から終わりが決まっているのが”恋”というものなら、”終わらない恋”はある意味、究極の理想であり夢でもあるのだろうから。

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2006-09-24

今月の映画 「カポーティ」


映画カポーティ


1959年11月15日、カンザス州ののどかな田舎町で一家4人惨殺事件が発生する。翌日、ニューヨークでこの事件を知った作家カポーティは、これを作品にしようと思い立ち、すぐさま現地へと取材に向かう。同行した幼なじみのネルと共に事件現場や関係者を訪ねて回るカポーティ。やがて2人の容疑者が逮捕されると、カポーティは彼らへの接近を試み、その一人ペリー・スミスにうまく取り入ることに成功する。「友人」という言葉を巧みに使いペリーとの面会を重ねる中で次第に彼の信頼を得ていくカポーティだったが・・・・。



トゥルーマン・カポーティと言えば、なんといっても「ティファニーで朝食を」だろう。超人気作家でありジェットセッターの走り。今の言葉だと”セレブ”(笑)

その後ノンフィクション・ノベルという新たなジャンルを切り拓いたと言われる彼の傑作『冷血』、なぜかその後はただひとつも作品を発表することがなかったという彼の『謎』をテーマにした作品である。


なんといってもカポーティの複雑な人物像を巧みに演じきったフィリップ・シーモア・ホフマンの演技なくしてはこの作品は成立しない。

センセーショナルな事件を扱うことによって新たな成功を目論むカポーティの嫌らしさ、そして立ち回りのうまさ。甲高い声に漂う自己顕示欲と仕草に漂う女性に対する微妙な嫌悪感と距離感。(彼は同性愛者であったことでも有名)

まさに”お友達になりたくない候補ベストスリー”には確実にランクインするだろう。

アカデミー主演男優賞をとったのも充分うなずける話である。


そして彼の取材に協力する犯人、ペリー。彼の特性は”弱さ”、これにつきる。

弱い人間は、常に自分の弱さをエクスキューズにする。体育の授業が嫌で休む言い訳を二個も三個もひねり出す子供のように、自説を振り回し、客観的な意見を排除し、自分にたてつくものは意見だろうが人間だろうが攻撃をしなければ気が済まない。基本的に自分しか見えていない、自分至上主義なのである。いくら外見がなよっちく弱い存在に見えても、その系統の人間は必ずそういうどう猛さを隠し持っている。ぺりーもまたしかり。(ちゃんとそれを感じさせるシーンがある。さすがである)

それで自分一人で生きていってくれるなら社会的な問題は発生しないのだが、そういう人物は見えるものしか信じないから自信も欠けていたりする。

だから自分をかまってくれたり自説に賛成してくれる人間は絶対に必要で、そんな人間を見つけたら最後、離れようとはしない。


そう、まさに”寄生”である。

カポーティはペリーの弱さに寄生されたのだ。



誤解を招かないように書いておくが、弱いことはけして悪いことではない(と思う)。というより弱くない人間などいない。弱い自分を理解してそれを克服しようとするならば、それはとても素晴らしい起爆剤になる。

けれども「弱いんだから許される」という言い訳にした時点でそれは”マイナス”になってしまう。貧乏な人がみんながみんな泥棒をしないのと同じように、そこには理性が介在する。それが人が人であるための唯一のファクターであり、それがなければ形が人間でもそれは”動物”でしかない。本能のみの、動物。

理性を弱さに食われてしまった人間が、波紋を呼び起こすのだ。


同性愛者であり数々のスキャンダルで知られたカポーティは、自己顕示欲で自分を保っていただろうことは想像に難くない。けれども本当はきっと弱い人間でもあったのだろう。だからこそあれだけの努力をし、社交界の頂点にまで上り詰めた。

野望をかなえるために友情という餌をちらつかせてペリーに近づいたカポーティは、結果的に自分の弱さや良心を剥き出しにされてしまったのではないだろうか。


あくまで想像上のドラマである本作品だけれど、もしこのようなことが実際に起こったのだとしたら。


「友人」という言葉と共に、ペリーはカポーティを食い尽くした。

ペリーは既に殺人を犯していたけれど、そのうえカポーティの『才能』も殺した。


弱さという刃を武器にして。



2006-09-16

今月の映画 「トンマッコルにようこそ」


映画トンマッコルにようこそ-1


映画トンマッコルにようこそ-2


1950年代、朝鮮戦争が続く中、戦争とはまるで無縁の平和な村が山奥にあった。その名はトンマッコル。そんな村へまるで導かれるように、アメリカ人パイロット、韓国軍の2人、それに敵対する人民軍の3人が迷い込んでくる。顔を合わすなり、銃を持ってにらみ合う両者だが、銃や手榴弾を見たことがない村人たちは呑気なもの。偶然から村人たちの食料貯蔵庫を爆破してしまった兵士達は、ひとまず協力して村人たちの畑仕事を手伝うことに。やがて心を開きあい笑顔を取り戻していく兵士達。けれどもその頃、トンマッコルに重大な危機が迫っていて・・・。



文字通り、腹を抱えて笑った。

そして、最後に涙が止まらなくて困った。


鼻水をすすりながら電車に乗ったのは初めてかも知れない。(想像しないように)



不思議な顔をした等身大の道祖神(守り神?)に守られたトンマッコルの村に迷い込んだ6人の兵士達。銃さえ見たことのない村人達に彼らの常識も脅しも通用せず、繰り広げられる珍妙なやりとりはまさに抱腹絶倒もの。

けれども、見ているうちにだんだん思えてきてしまうのだ。

どちらの常識が”本当に正しいのか”と。


人を疑うことを知らず、仲良く平和に幸せに生きているトンマッコルの人々。

敵を見たらやられる前にやってしまえと無意識に思ってしまう軍人達。

補給路をたたれたら戦争が長引くと、その地域への被害はしょうがないなどとほざくアメリカ人指揮官は、考えればやっぱり異常だ。その思考回路のバカバカしさが本当に自然に感じられてくる。人に向かって爆弾を落とすことがどれだけ酷いことなのかをしみじみ実感できる。


どっかの大国の馬鹿な戦争好きの大統領や兵器は必要悪だと言って憚らない軍事関係者にこの映画を見て頂きたいものだ。



風に舞って空から落ちてくるポップコーン。

見渡す限りの草原で滑り落ちていく草そり。

広い広い畑と青々と茂った作物と村人達の笑顔。

たくさんの明かりに囲まれて歌い踊る祭の風景。


なんて美しい世界なのか。

これ以上必要なものなんて、きっとない。



この映画の元ネタは舞台なのだそうだ。舞台のオリジナルキャストであるチョン・ジョヨンとシン・ハギョンが映画でも重要な役を演じている。二人とも共にいい男で(好み!)まさに目の保養。(爆)

またキーパーソンであるを演じるカン・ヘジョンのイノセントな演技もいい。村人達もそれぞれいい味を出しているし、トップスターは出演していないというが、なかなかどうして韓国映画界の人材の豊富さを感じさせる。

久石譲の音楽も、ファンタジックな美しい映像と相まって『千と千尋の神隠し』の実写版を見ているかのような錯覚を覚える。



勝手な理屈で乱入してきた軍人に殺されてしまう少女。村を守るためにたった5人で立ち向かう兵士達は涙なくしては見ていられない。

そのうちの一人がいう『オレ達、南北同盟軍ですよね?!』というセリフの通りにできるなら、こんな馬鹿なことは起こらなかっただろうに。

爆撃の中で最後に見せる満足そうな笑顔は、村を救った喜びだったのだろうか。それともそれまでに犯した罪を償えたのか。

できるなら、彼らがもう一度トンマッコルに生まれ変わって幸せに暮らせるように。

そして、今のこの世界の中にもひっそりとこんな幸せな場所が残っていると信じたい。


2006-09-15

今月の映画 「ワールド・トレードセンター」


映画ワールド・トレードセンター


2001年9月11日、全世界がTV画面に釘付けになった、あの日。アメリカ同時多発テロの標的となったワールド・トレード・センターの地下港湾警察官のジョン・マクローリンとウィル・ヒメノ、そして仲間達は崩れ落ちるビルの巻き添えになり地中深く生き埋めの状態になる。地中深くに閉じ込められた彼らは、極限状況の中、必死に生き延びようとするのだが・・・。


この映画に関しては多くを語る必要はないだろう。



あの出来事が起こったとき、たまたま私は家に帰ってテレビを付けたところだった。

妙な軌道で飛んでいる便があるというコメントと共にたぶんたまたま向けたのだろうカメラの映像が流れ、と思ったらビルに飛行機がぐっさりとささっていた。

目にした”もの”を頭で消化して理解する間もなく二機目が突っ込み、そのままテレビの中で混乱が広がっていくのを、一人きりのリビングでただ見つめていた。

確かとても天気が良い、ちょっと涼しい秋の日の夕方だったと思う。(まだ向こうにいた頃の話なので時差が日本とは違います)


その時、急に頭の中にフラッシュバックしたのが阪神大震災の映像だった。

私の母は神戸出身で、親戚のほとんどが神戸在住だった。例えば高速道路が折れた真横に写っていたマンションには母の弟家族が住んでいたし、従姉妹は長田区で一人暮らししていた。友人もいわゆる阪神間のあたりに住んでいるのが多かった。

ありがたいことに死人は出なかった。ほとんどが被災して神戸を離れたけれども、それで人生を棒に振った人間は私の身近にはいなかった。本当にラッキーだった。

それでもあの息詰まるような息苦しさ、消息が知れるまでの祈るような気持ちはまだまざまざと思い出せる。この映画の中でジョンとウィルの家族が見せる葛藤と苦しみは、程度は違えどだからとてもわかるのだ。


第一報から「駄目だった」と聞けば、悲しみ苦しんでもまだあきらめはつく。怖いのは可能性が残っているとき、どんなに低い可能性でもそれに人はしがみついてしまうものだから。

誰かが見つかったと聞けば自分の待ち人かもと思い、そうでなければ嫉妬する。自分の待ち人であったならば、自分はよかったと胸をなで下ろす。


この映画のテーマのように人間は支え合うこともできるが、簡単に悪魔にもなれるものなのだ。



もうひとつ。

冒頭でジョンのチームとしてビルに向かい、災害に巻き込まれるメンバーのロッカーの名前をカメラがパンするシーンがあるが、ほとんどが基本的に移民系の名字である。はっきりいえばアメリカ社会では中流~下流に属することが多い人々だ。

ジョンとウィルは戻って来れたからヒーローになった。

けれども戻って来れなかった大多数の人々は、間違っても毎日リムジンで通勤したり、大統領専用ジェットで移動するような人種ではなかったことは改めてよく肝に銘じておくべきなのではないだろうか。



観る前に想像したように、アメリカ賛歌の内容ではなかったことは評価したい。

ニコラス・ケイジのような実力ある役者を使っているのにあえてヒーローを作らなかったことも、オリバー・ストーン監督らしい良心だと思える。


けれどもこの映画を撮った意味は、きっとこれから問われていくのだろう。

2006-09-13

魔界転生


魔界転生-1


魔界転生-2


映画や観劇を一緒するならこの人以上の相手はいない、という仲良しと「魔界転生」を観る。なんといっても目の付けどころに突っ込むタイミング、男の趣味まで似ている。こんな楽な相手はいない。

二人の目当ては、成宮くん演じる天草四郎。
二人とも揃ってジュリーのイメージが強い天草四郎だが(歳がばれるなあ)、どうしてどうして成宮寛貴演じる四朗も負けていない。


セクシーです、色っぽいです。

しゃべりかた美輪明弘、仕草はミッチー王子なのは微妙、

ですが。
普通にしても充分魅力的だと思うんだけどねー。


歌舞伎通の彼女のおかげで、席も花道真横、前から八列目のベストポジション!おかげで表情もよく見えたし、声も聞き取りやすく環境的にもサイコー♪
相手役十兵衛の中村橋之助はもちろん、意外にはまり役だったのが宮元武蔵役の西岡徳馬。ファンの方には申し訳ないが、なんとなくトレンディドラマ(死語)の”ちょっとセクハラな上司”というイメージしかなかったのだが、どうしてどうしてわかっていても西岡さんに見えない。なのに、最後の舞台挨拶だと同じ衣装なのに全然違う人物に見える。
恐るべし、役者魂。

橋之助と西岡氏が出てくるだけで正直舞台が引きしまる。成宮君の色っぽさはそれこそDVDかなんかで個人保有したくなるほどだが、やはりキャリアの差は歴然。
特に終盤、声も枯れているしそもそも全体的にいっぱいいっぱいなのがわかってしまう。役としてのイメージはぴったりだっただけにかなり残念だった。


それでも、場面展開の的確さ、流れのスムーズさ、役者陣も美形が多くて目の保養だし(笑)、満足度はかなり高い。
ぶっちゃけ、『払ったお金の価値の分』楽しめた舞台だったと思う。こういうのって久々です。



あー、面白かった。
大満足♪
 

#途中の演出はかなりきわどくてびっくり(映画だったらR15確定?)
成宮君ファンの中学生とか来たらどうするんだろう・・・・お子さま連れは御注意下さい。




舞台がはけたあとは、友達と飲みながらおしゃべり。
感覚のあう友人の貴重さを再確認した夜だったのでしたw。まる。


2006-09-10

江戸東京博物館 「始皇帝と彩色兵馬俑展」

まーたチケットを貰ったにもかかわらず、なかなか行けずにいた表題の企画展。開催期間は10月頭まであると余裕をぶっこいていたら、なんと頂いた券の期限が本日までっ!
折しも数日前から相方が風邪をひき、軽い病人生活を営んでいらっしゃる。熱も下がったし食欲もあるしほとんど大丈夫といえば大丈夫なのだが、来週末に大イベントがあるので、ここで無理をしないに越したことはない。

が、確かにチケットがもったいないとも言えるので、一応聞いてみたところ、是非行きたいとおっしゃる。
そんなに中国の歴史物って好きだったっけ?


「いや、あの上の展示室面白かったから、無駄にするのはくやしいじゃん」


目当ては常設展示の方かいっ!
招待券の手前、それもどうかと思うが。



まあ、ともかくそういうわけでさらっと出掛けてきた「始皇帝と彩色兵馬俑展」だが、思いがけず面白かった。前々回の「ベルサイユ展」に比べると人も少なかったが、こっちの方がよっぽど見応えある気がする。

世界初公開となる彩色兵馬の美しさももちろん素晴らしいが、これに限らず各俑(土偶)の造形は見事なものだ。特に漢王朝以降のものは体の細部まで忠実に作られている上に、皮で鎧を作り布で服を作って着せていたらしい。これが何百体とあったらしいから、手間だけ考えても気が遠くなりそう。(くらっ)

こんなものを”埋める”ために作る気持ちが正直言ってよくわからないが、もしかしたら彼らにとって肉体が滅んでも魂はそのまま残るといった想いがあったのだろうか。
そういえば日本の古墳も(マネかもしれないが)埴輪とか入れるし、今だって寂しくないように生前好んだものをお棺に入れたりするなあ。
スケールは違えど、死者が寂しくないようにという思いやりは昔も今も代わらないのかも知れない。


別に『驚異の地下帝国』な状態にする必要は感じないけどね。(笑)



2006-09-101 2006-09-102
二階の常設展示のジオラマ。
こうやって撮ると一見実物っぽく見えませんか?
本当に良くできていて感心する。

昨日のアドまちで、人形一体10万(!)とか言っていたけど
なんか納得できるような気がするなあ。。。。



2006-09-08

今月の映画 「イルマーレ」


映画イルマーレ


シカゴで医師として働くことになったケイトは、お気に入りの湖畔に立つガラス張りの家から引っ越すことになり、引っ越す日に次の住人に宛てて手紙を残す。「郵便物の転送をお願いします。玄関の犬の足跡と屋根裏の箱は元からありました」。新しい住人アレックスは手紙を読むが意味がわからない。犬の足跡はないし、屋根裏に箱もない。しかし翌日、迷子の犬がやってきてペンキで足跡をつける。アレックスは、このことをケイトに手紙で知らせる。「何故君がそれを知っていたのか?」と

数回の手紙のやりとりからアレックスとケイトは2年隔たった時間に生きていることを知る。2人の不思議な文通は続き、やがて愛し合うようになるのだが。。。



ただの作り話は”おとぎ話”にならない。

ヒトというものは自分に(いや、周りの友人でも家族でもペットのポチにでもいいんだけど)「もしかして、本当にもしかして、めちゃくちゃ低い確率だけど、でも、でもでももしかして、もしかしたらそんなことが起こるかもw」なーんて思えないことに、金輪際夢なんか見ないものだ。

明日自分の頭のてっぺんからもう一本手が生えてくるとか、自分のおばあちゃんを産み落としちゃうとかなんていうのはだからおとぎ話にはならない。単なる”作り事”でしかないのだ。(いや、別に夢に見てくれてもいいんだけどさ)


というわけで、この映画「イルマーレ」である。


いわゆるタイム・パラドックスもの。この手の話はSFでは逆に使い古された感があるが、現実味のなさは横綱級のテーマでもある。いくら理論的には可能かもしれなくても、どうしてもお話に矛盾が生じてしまうからで、だからこそ普通は”過去に干渉しない”といういう鉄則から逃れることはできない。

ましてやこの映画のように、手紙をやりとりしたり、過去の人間に現在の本を贈ったり、昔の忘れ物を届けてもらうなんていうのはあり得ない、ってか、


あっちゃいけない。


ツッコむどころの騒ぎではない。



それなのについ二人の愛の成就を願ってしまうのは、ひとえに主演の二人、アレックスを演じたキアヌ・リーブスとケイト役のサンドラ・ブロックの実力だろう。

「スピード」から十二年ぶりの共演となる二人は息もピッタリ。双方ともに華やかな空気をまとった美男美女なのに、スクリーンの中の二人はそこはかとない孤独感や人付き合いの不器用さを抱えた、多分どこにでもいるような等身大の一組の男女にしか見えない。

それだからこそ、偶然”過去の”彼女に出会い、やっと出会えた喜びと言い出せないもどかしさにとまどうアレックスには見ているこちらまで切なくなってしまう。

愛する彼に必死に事故のことを知らせに走るケイトと一緒に、彼が助かって欲しいと間に合ってほしいと心から祈ってしまうのだ。


ちょっと冷静に考えれば、それなら彼女の目の前で事故にあった彼はどうなったのかとか、レストランに来なかったことはなしになるのかとか疑問は尽きない。

けれども、この映画に限ってはそんなことはどうでもよくなるような”モノ”が確かにある。ハリウッドものにしては地味めだけれども、例えて言えば華やかな肉料理ではなくて、きちんと炊いた白いご飯のような味わいといえばいいだろうか。

けして胃もたれはしないさわやかさ。そして丁度いい切なさ。




実はこの映画はリメイクで、元ネタは韓国で大ヒットした”デートムービー”同名「イルマーレ」。

設定はほとんど変わっていない。が、あちらはお国柄なのか手紙の文面からなにから情緒的でかなり甘くウェットな雰囲気があったけれど、ハリウッドリメイク版のこれはどこか大人のビターな味わい。

昔、フランス映画「ニキータ(あの有名な雑誌のタイトルじゃないですよ?(笑))」をリメイクした「アサシン」を見た時に、ハリウッドでリメイクすると随分雰囲気が変わるもんだと感心した覚えがある。なんていうか、濃さや特徴を地均しするような感じなのだ。大味になるともいう。(爆)

これはいい場合と悪く出る場合があるけれど、この作品の場合は良い方に転んだのではないだろうか。単なる恋愛映画ではなく、長年連れ添った夫婦が一緒に見に行けるような作品に仕上がっている。




ちらしに「まだ泣くための映画ですか?」という一文があった。

ホントにそうだなあ、と思う。

映画だけはなく人も。


今のこの世の中、”自分の好意”だけでアップアップしてしまう自分勝手なお子様恋愛人間(と映画)のなんと多いことか。四年の月日、あきらめずけれども押しつけることもせず、ただ密やかに彼女を見守りつづけたアレックスの爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。

男(と映画。しつこいけど)はまっとうさと知性、ホントこれにつきますな。


というわけで恋愛映画で泣くのにほとほと飽きた大人の方へ(笑)、お勧めできる映画。

べたべたにはまって泣きたい向きはオリジナルの方をどうぞ。



2006-09-06

納涼 茂山狂言祭2006

チケットを取り損ねていた茂山千五郎家恒例の”納涼狂言祭”。
日頃の行いのよさか(?)ひょんなことでオークションで半額以下でチケットが手に入る。
ぐふふ、らっきー♪♪♪


毎年春と夏にやるこの狂言祭は、ここ数年リクエスト狂言の形をとっている。つまりはアンケートをとってお客さんが見たい狂言をやりましょう、ということですな。採用されると招待券はくれるし楽屋訪問なんておまけもつくらしく、毎回せっせと応募しているのだがその恩恵にまだあずかったことはない。くくく。(泣)


まあ、それはともかくそれで選ばれたであろう今日の演目は「粟田口」「狐塚」「六地蔵」・・・なんだか揃いも揃って”忙しい”狂言ばかり。
狂言というのは能と比べれば基本的には”動”の芸だけど、それでも言葉遊びで見せるものも多いし、動きの激しいものは限られているはず。でもやっぱり見ている方は動きが多い方が面白いし笑えるからどうしてもそうなっちゃうのかな。
翻って出演者の顔ぶれを見ればオーバー還暦もちらほら・・・


確か国立能楽堂って日本で一番橋がかりが長いはず。
で、そこを思いっきり走り回るはず・・・だよなあ。


久々の舞台はもちろん面白かったし(千之丞さんと丸さんのセットはどうしてあんなにかわいすぎなんだ、素敵!)笑いまくらせてもらったけど、今回つくづくこの人達の体力というか体の機能のすごさに改めて感心。
頭の話で千之丞さんがおっしゃっていたように、能楽師がお金を稼げないかどうかはともかく、健康と体力に恵まれるであろうことは確かなことみたいだ。
(もちろんそれだけの鍛え方をしているわけですけど)

願わくばこのメンバーをずっと舞台で拝見できるといいなあ。



てなわけで、来月はまた昼夜通しで見に行く予定。あー、楽しみ!(^^)




・・・・・・・・しかし、なぜか今年は9月開催、なのに納涼?



プロフィール

hijiri

Author:hijiri
長年のITまみれな生活を経て、着物と煙管、和文化と美しいもの、酒と美食(B級)をこよなく愛する生活。
■日本の文化と”今”をつなぐ再実感マガジンJapaaanでライターやってます。
http://mag.japaaan.com/
■cafeglobe読者エディター、やらせて頂いてます。
http://www.cafeglobe.com/2013/06/030174cafeglobe_readers.html
■ミラーサイトはこちら http://ameblo.jp/hijiri-info

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