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2006-10-22

今月の映画 「ウィンターソング」


映画ウィンターソング


映画監督を目指す見東と女優を夢見る孫納は冬の北京で出会う。貧しく若い二人の暖めあうような不安定で真摯な関係は、雪の降る朝突然終わりを告げた。孫納は見東を捨て出ていったのだ。

そして10年。映画俳優になった見東と売れっ子女優の地位を確立した孫納。見東はいまだ孫納への思いが断ち切れず共演を承諾する。時間を戻そうとする彼と、過去を振り返りたくない孫納。まるでそれらのエピソードをトレースした彼のような映画のストーリー。

劇中劇の映画のシーンと二人の過去の思いが絡み合い、それぞれの思いを抱えながら撮影は進行していくのだが・・・。



えーと。


中国版「金色夜叉」をムーランルージュ風ミュージカルに作ってみました♪、みたいな映画です。

以上。



・・・って、それで終わりかいっ!


ミュージカルシーンは素晴らしい出来だが(正直、彼の国でここまでモダンなものを作るとはちょっとびっくりだった)どう好意的に見ても、主演二人の役柄に親近感が湧かないのは痛い。

貧乏を抜け出したい一心とはいえ男が差し出す権力と地位に簡単に男を乗り換えていく孫納と十年も出ていった女に執着してうじうじする見東。

女が出ていった家を買い取り、十年間もそこを訪れ女への泣き言をカセットに吹き込んで記録する男なんて、


それってストーカーじゃんっ!


いくら金城武の美しい外見をしていたってごめん被りたいと思うのは私だけではないはずだ。(演技力はさすがなので、さらにそう感じるのも皮肉だけど)

孫納を演じるジョウ・シュンも”ポスト チヤン・ツイィー”の呼び声高く、確かに綺麗だけどそこまで男どもがなにを引き替えにしても、と思うような女に見えないのがつらい。

どちらかというと外見と媚びだけで生きているようなずるさを強く感じるので、感情移入どころか嫌悪感を感じる女性も多いのではないだろうか。

主人公二人がこれでは、観客は納得するどころかどんどん置いて行かれてしまう始末になる。

唯一まだ理解できるのが、劇中劇である映画の監督でもあり孫納をうばった友人でもあるジャッキー・チュン演じる男性である(役名不明、主要な役なのになぜかチラシやサイトでは全然フィーチャーされていないのが不思議。なぜ?)。

彼はたぶん美しい孫納が欲しくて、でも手に入れたら入れたで彼女に本当に愛されているとは思えなくて苦悩する。彼女の”本当の”思いを全うさせようと身を引く決心までする。

こういう男と並ぶと、さらに金城武演じる見東が情けなさバクハツに見えるので、よけい感情移入できないと。だって、彼のが”愛”なら見東のはただの”執着”でしかないのは誰が見たって一目瞭然。

主人公が劣って見える脚本って・・・ああ意味がわからん。(苦笑)


考えてみたら貧しいから成り上がりたい、という気持ちを、この豊かな世代の私達が理解できないのは当たり前かも知れない。

けれど、映画という作り物ではそれはやはり大事なこと。それがもし「そうかもしれない」「孫納があっちを選んだ気持ちもわかる」と思えたら印象はかなり違っただろう。

そう思うとちょっと残念な気もする。





クレジットを見ていたら、実際のタイトルは「Parhaps Love」(直訳すると「もしかして、愛」って感じかな?)らしい。

なんでウィンターソングなんだろう?うーん、なんか謎だらけの映画です。

しかし、ジョウ・シュンが南果歩に見えるのは私だけか?(笑)


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2006-10-15

ゴスペルワークショップ発表会@すみだトリフォニーホール

すみだトリフォニーホールで募集していた「ゴスペルワークショップ」、今日はその集大成でもある発表会でした。

歌うのは何でも好きだけどどうせならフリ付き踊り付きがより楽しい方なので(苦笑)、「天使にラブソングを」を見てから、これは面白そうだと憧れていたゴスペル。
これをたった二回の練習で、普通だったらオーケストラとかが使うような大ホールで歌わせてくれる♪ってだけで、参加したくなるってもんです。


オランダにいたとき、日本人だけの私設コーラスグループに拉致され参加していて、あちらこちらのイベントや老人ホームで歌っていたことがあるのだけど、ああいうのって一度体験するとなかなか抜けられないんだよね。
なんていうか、一体感というか舞台に立つ快感というか。
実は私は楽譜が読めないので結構大変なんだけど、うまく歌えてハモった時の気持ちよさったら言葉にはできません。
今回はなんと総勢200人弱の大所帯。はっきり言ってものすごい快感でしたw。


2006-10-15
一応、肖像権の問題があるので最低画質で

結構壮観でしょ?
なぜか最前列でした。
態度のでかさがよかったのか?(笑)



すっかり味を占めて、今度は練習会の見学に行こうかと画策中。
まったく我ながらはまりやすい(苦笑)・・・だって楽しかったんだもん!
2006-10-11

今月の映画 「13の月」


映画13の月


都会での勤めを辞め、故郷に戻ってきた吉岡佑は、母親から村沢唯子が結婚することを聞かされる。12年前、唯子は佑の先輩の恋人だった。想いを寄せることが叶わない相手・・・けれども二人は一度だけ過ちを犯す。1年を13の月に分けた暦の中の空白の1日にあたるその日に。

そのことが原因で唯子の恋人が事故死し、二人の間には12年の悔恨と空白の時間をが残る。罪悪感を背負い、精神を病んだ唯子の支えになったのは、医者の木島貴弘だった。彼女は子持ちの木島と共に新しい生活を始めようとしていた。それぞれに埋めようと努めてきた12年を経て再会した二人。けれども佑は余命三ヶ月と診断された病に冒されていた・・・・。


最初「13の月」というタイトルを聞いて、頭に浮かんだのがドリームスペル暦だった。マヤン・カレンダーとも呼ばれるこの暦は一ヶ月28日×13ヶ月という本来の人間本来の生体リズムを元に作られたもので、それ故シンクロニティが起こりやすいものとして、最近はまたあちこちで取り上げられているのを目にする。

周知の通り、現在私達が使っているのは太陽暦であるグレオリオ暦。しかし古代では世界中のどこでも陰暦(月をベースにした暦)を使っていた。暗い夜空に輝く月はあまりに存在が自然な太陽よりも神秘的だったのかもしれないし、女性の体のリズム、汐の満ち欠けに月が関係しているところをみても、どこか不思議なパワーを感じるものだったのかもしれない。

そしてこの映画もそんな不思議な月をモチーフにしているように見える。

(ちなみにドリームスペル暦も太陽暦であるが、月の公転周期約28日が基本になっている。地球から見た満ち欠けの周期は30日なので今の暦と同じ)

365日で一年のグレオリオ暦を28日×13ヶ月の364日で換算すると、一日あまる。ドリームスペル暦では「時間をはずした日」「自由の日」とも呼ばれているその日が、この映画の重要な役割を果たしている。

普通であったなら、おくびにも出さなかったであろう想いがふと表に現れ形になる。けれども”それ”が起こった日が「空白の日」であったために通り過ぎるはずの時間の中に閉じこめられてしまった佑と唯子は、周りをも巻き込んでそのまま時間を止めてしまった。それだけ経っていれば普通なら後悔は消えずとも思い出にくらいになるだろうと思うのに、スクリーンの中では確かに12年前の時間と思いで人々が動いている。

そんな純粋な想いを羨ましいと思う反面、そんなことがあるのかと眉唾な思いがしたのは正直否めない。


途中、唯子の婚約者の医者が、父親の本棚から大量の”唯子の記録”を発見し、佑と唯子の昔の過ちを知り荒れるシーンがある。けれども普通に考えて、例えば彼女が同乗していた車の事故で大けがを負ったとしても、わざわざノートに付けるような克明な記録を残すだろうか。もしかして父親は精神科の権威だったりしたのかもしれないが、どうも「発見しました」「それで知りました」みたいな安易なストーリー展開に見えて、すっかり興ざめしてしまった。

過去の、まだ少女と言ってもいいくらいの頃の婚約者のただ一度の過ち、確かにそれで人が亡くなったことは大きいことだが、大人がそこまで現実的に嫉妬に狂うものだろうか。


それまでは、どちらかというと好意的な目を向けていたので、余計そう感じたのかも知れない。虚構というのはひとつでも大きな「?」が起これば、そこですっかり目が覚めてしまうものなのだ。

映画しかり、恋愛しかり。

観て想像しろという安易な方法でなく、もう少し丁寧に主役二人以外のキャラクターにもしっかりした軸を与えて欲しかったと思う。例えば彼の連れ子とか、佑の同級生とか。


ただひとつ思うのに、私はそういう場に身を置いたことがないのでわからないのだが、例えば同級生の元妻と再婚してもその全員同じ町で顔を合わせるような暮らしの中では、もしかして年若い二人が起こしたスキャンダルも、二人に一生の烙印を押しつけてしまうには充分なものだったのだろうか。都会の忙しい毎日の中では”過去の過ち”として流されていってしまうようなことが大きな傷として残ってしまうのかもしれない。

そうだとしたら、佑が帰ってきたことで、今まで蓋をしていたものが解き放たれることを恐れる気持ちはなんとなくわかるような気もする。


佑役の柏原崇というとモデル出身のイケメンという印象しかなかったが、こんなに演技が上手かったっけという好演ですっかり見直してしまった。逆に大塚寧々ってこんなに大根だった?という感じ(ファンの方ごめんなさい)。監督の指示なのか衣装さんなのか知らないが、微妙にダサメの格好をさせているところが、綺麗だけどあくまでその狭い田舎の中では、みたいなところを感じさせてなかなかリアルでよかったけれど、しゃべりが妙にわざとらしくて違和感ありあり。

ミッキー・カーチスがいい味を出しているが、キャラとしてどういう役回りかは微妙に謎。これは他のキャラクターにも言える。割とうまい役者さんを揃えているのだから、もう少し掘り下げるような作りでもよかったような気がする。

クセのある役者として定評のある池内博之の初監督作品として観れば特に、『雰囲気でわかってね』的な作りは、ちょっと期待はずれだったかな、と残念。


「空白の日」は秩序が戻る日だと唯子は言った。その特別な時間の中に閉じこめられた二人は、12年後、佑の帰郷、そして死によってやっと普通の時間軸に戻ったということなのだろう。けれども、本当に彼女は秩序の中に戻っていったのだろうか。

一度知ったことは知らないフリは難しい。ましてやそんな人間関係の中で、取り残された彼女はやっぱりまだその中にいるような気がしてしまう。

一番罪深いのもやはり彼女なのだろうから。


2006-10-04

映画漬けの一日、目指せオールクリア?!

家の近所に大きなショッピングモールとシネマ・コンプレックスができた。歩いて行けるし、ここで試写会とかが当選したら楽だよなあ、と思っていたりしたが、周り曰く「そんなに都合良く当たらないよ」。


こーれがちゃんと当たるんだなあ、ふぉっふぉっふぉ。


てなわけで、本日ぴかぴかのシネコンへGo!(今日はまだプレオープン)

内装もとても高級感があるし、どこかのインテリアショップと見まがうくらいの綺麗さ。○○ホールみたいなところばかりでほとんど試写会onlyの身には非常に場違いに感じる。つーか、あまりに近所なのでついノーメークにつっかけで行っちゃったし。(笑)

なんと、中にお酒が飲めるカウンターバーまである!これは罠か?!(苦笑)

今日の試写会はDVDシネフェスタというもので、今回のお題は「あなたが選ぶ夕日ムービー」。エントリーされた夕日が印象的な作品を六本を見れるだけ見てもいいという太っ腹な企画である。

で、結局本日見たのは三本。


「きみに読む物語」

とても見たかった映画なのでうれしかったが、客観的に見ても期待を裏切らず高レベルの作品だった。途中で結末が想像できる部分はあるが、結果的にはそれもしっかり裏切られて心地いい。

あれだけ一途に愛されたら女として幸せだろうなあ。

レトロなファッションやインテリアもとてもかわいいし(特にウェッジソールのヒール靴はキュート!)、冒頭の夕日の中をボートで行くシーンは美しすぎてため息が出る。

私の「夕日で賞」は断然これ!

「アウトサイダー」

コッポラ作の青春ムービー。時代的な背景もあり古さは否めないが、トーマス・ハウエル、マット・ディロン、トム・クルーズなど今ではそうそうたるスターが勢揃いである。トム・クルーズの顔が全然変わってないのには笑えた。

「ビフォア・サンセット」

これも見たかった映画。前作で運命的な一夜を過ごしながら、すれ違いで会えずにいた男女の九年後を描いた作品。

とにかくよくしゃべることしゃべること!相性って会話かもと思わされるものがある。限られた時間の中、話せば話すほどあきらめたはずの想いが募り、別れがたい気持ちが滲み出る。どちらにもとれる結末は、さてどちらが本当か。


ちなみに残りの三本は「黄昏」「海辺の家」「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」。

本当は「海辺の家」は見ようかとも思ったが、さすがに脳味噌が溶けそうで断念しました。(笑)


それにしても近所とはいえ、下手したらデートカップルが席巻しまくりそうな場所。

間違っても今度はノーメークで出掛けるのはやめよう。(汗)



2006-10-04

今月の映画 「地下鉄に乗って」


映画地下鉄に乗って


小さな衣料品会社の営業マン、長谷部真次は、いつものようにスーツケースを転がしながら地下鉄で移動していた。そこに突然、亡き兄が姿を現す。兄の背中を追って地下通路を抜けると、そこは昭和39年の東京だった。ほどなくして真次は無事現在に戻ってくるが、後日、今度は恋人の軽部みち子も一緒に昭和21年に遡り、闇市でしたたかに生きる若き日の父・小沼佐吉に出会う。兄が死んだことも家庭が崩壊したことも、自分勝手な父親のせいだと深く憎み続けてきた真次。しかしそこには彼の知らなかった父親の姿があった・・・・。


先が読めないハラハラ感にのっけから引き込まれるそのパワーは凄いけれど、構成のせいかオムニバスのような印象が拭えない。時間を行きつ戻りつする主人公に最初は感情移入できても、小間切れのエピソードにだんだんついていけなくなってしまう。


過去に戻って、昔の父親に会う。憎む存在である彼は、けれども子として見なければまったく別の印象を持つ。

家族だからよく知っているような気がしても、見ているのはあくまで”父親”であり、”人”としては見ていないことが多い。親であればなおさら、子供は完璧な存在を無意識に期待する。けれども人間である限り、間違いもありすれ違いもあるのだ。

よっぽどおめでたい人生を歩んできた人でなければ、誰にも思い当たることはあるだろう。

身勝手な父親を憎んでいても、真次はその父親にそっくりだ。

いいことも悪いことも、優しさも勝手さも、知らないうちに親から手渡される。好むとも好まざるとも、親の背中をトレースして、人は生きていく。



もう一人のタイムトラベラー、みち子もやはり親に似ている。愛する男の為に、身を引くのでなく、あろうことか”自分を消し去る”ことを選ぶ。

「お母さんの幸せと、私の愛した人の幸せを、秤にかけてもいいですか。」

選べるのはどちらか、両方を選ぶという選択肢は彼女にはない。そしてその自己犠牲の思いは、やはり母親が彼女に手渡したものなのだ。


堤真一の真面目だけれど自分勝手な真次もいいが、時代に翻弄されて変わっていく父親を演じた大沢たかおはやはりうまい。純真な目がだんだんに汚れ、鋭い光を帯びてくる。それでも端々に見えるまっすぐな強さが、結果的に勝者となった彼の人生を暗示しているかのようにも見える。

常磐貴子も最近こういうあばずれな(笑)女の役が多いせいか、派手な外観もあってよくはまってはいる。しかしやはり母親の強さというところにおいてはちょっと厚みが足りない感じ。肝っ玉母さんというのは口調だけではなかなか演じるのは難しい。健闘はしていたと思うが、やはり経験値の違いだろうか。

岡本綾はあまりよく知らないが、もう存在からして線が細くて薄幸そう。表情がなんていうか、韓国メロドラマ系?ぽやーんとした印象は男性にはたまらんのだろうなあと密かに分析。(笑)

うまいかどうかというよりも今回のみち子の役にはぴったりだったのでは。



映画としての完成度を考えると見終わった後の未消化感がもどかしいが、誰でも持っている”想い”のようなものをふと思い出させるような作品ではあると思う。




原作や舞台では、真次はみち子やアムールのことを覚えている設定なのだそうだ。

この映画では彼は全てを忘れてしまい、新たにリセットした人生を生きていくだろうことが暗示される。(その記憶の切れ目がよくわからないので、見終わった後に余計疑問が残ってしまうのだが)

どちらがいいかは分からない。けれど、ポケットから出てきた指輪を不思議そうに眺める真次の表情は、自分を消してまで彼を守ろうとしたみち子の想いを考えると、やはりちょっとやるせない。


2006-10-03

東京都美術館 ペルシャ文明展

歴史は古代史が好きである。
学生時代から現代史・近代史のたぐいは「歴史じゃないからつまらない(!)」などと言ってはばからず、試験の出来が”時代”によってまったく違うと先生方を嘆かせていたくらいである。
今だから白状するが、着物にはまってから江戸時代はぐっと身近になったけれど、以前は私の中では日本史は戦国時代あたりでほぼ終わってたんだよね。(笑)


これは世界史にも言えることで、やっぱりこれもヨーロッパに住むまでは十字軍くらいで終わってた。向こうなら断然、チグリス・ユーフラテス文明とかエジプト文明とかエキゾチック系が好きで、ササン朝ペルシャなんて聞くと、もう意味もなくうっとりしてしまう。(笑)
そのそのササン朝ペルシャから栄華を誇ったアケメネス朝までの美術工芸品を紹介するのがこの企画展。
そりゃー、やっぱり見てみたいでしょ、ってなわけで最終日に滑り込む。(相変わらず手元にチケットがあったりもしたし。(苦笑))


今回の目玉は「有翼ライオンの黄金のリュトン」。リュトンとは酒を注ぐための容器のことだが、後期になるとこれ以外にも見事な金細工のものが多い。
もともと前期の頃からくちばしをのばしたような水差しのようなものもたくさんあって、乾燥する地域で水物がとても大事にされたんだろうなあという気がする。
そういう金細工も確かにいいが、私は初期の土モノの方がデザイン的に素晴らしいと思う。簡素にして大胆、そしてモダン。特にこぶ牛(背中にこぶがあるあの地域特有の牛)をディフォルメしたものなんか、今のモダンデザイン博なんかに出品したってなんら遜色がないんじゃないだろうか。できれば家に一個欲しいくらいだ。


後は印鑑とか金貨や銀貨もあって、作りの緻密さといい打ち出しの細かさといい今のものとそう変わらない(いやむしろ上?)。”紀元前”ってはるか彼方昔というイメージしかないけれど、既に成熟した文化を持っていたのだなあと改めて思う。
ガラス椀など、正倉院にある瑠璃椀などと似通ったものもあり、その頃シルクロードを通って伝来したのだろうと自然に想像させてくれる。展示の方法もなかなか秀越な展示会でした。


2006-10-03

この展示会について相方が面白いことを言っていた。

「ペルシャっていうとなんかいいイメージだけど、これがイランだったらいまいちイメージ悪くて人集まらないかもねー。」

うーむ、確かに。(苦笑)
笑っていいことでもないが。


過去の御仁達も今の状態を見て眉をひそめているのかもね。


 
2006-10-01

なんちゃって茶会へようこそ

先日うっかり茶釜を購入してしまった勢いで、自宅で念願の茶会を開催。
茶会といっても我が師匠や社中の先輩や本格的にやってらっしゃる方が見たら、目を剥くどころか引きつけを起こしそうなゆるゆるのお茶会である。
ま、ここが”なんちゃって”の由縁なわけで。



お茶というのはちゃんとやるとすごくガチガチの世界で、今では理由のわからないルールもたくさんある。それに「こういうことは理論的に教わるものではない」と思っていらっしゃる方もまだまだ多いから、訳もわからずなんだか冷たい視線だけ浴びて、肩が凝るだけの面倒な事だと思っている人も多い。


だって、お茶を飲むだけのことでしょ?
まあ一言で言えばそうなんだけど。


もともとは文化として楽しみとして発展したものでもあるのだから(そうでなきゃとっくに廃れているはず)、お茶というのはあの”不自由さ”を楽しむものでもあるのだと思う。けれど不自由だからと言って、楽しくなければ言語道断本末転倒。私なんかは茶会のあの雰囲気はごっこ遊びにも似てかなり楽しいものだと思うし、そういうのがあるから厳しいお稽古に我慢できたりもするんだと思う。(おなごならおべべという楽しみもあるし)


だから普段は真面目にお稽古していても、たまには気楽に、美味しいところだけつまみ食いするような気楽な茶会があったっていいとずっと思っていた。これでもし、全然お茶なんてやったことなかったけど、面白そうだから普通のお茶会も行ってみようかな、と思ってくれる人がいたり、苦痛でしょうがないと思っていたお茶がやっぱり面白いものだと見直してくれる人がいたら、それはとっても素敵な事だと思うんだよね。


実際に私も何度もめげそうになったわけで。
だからできるならこういうことを続けて、定期的にやれたらいいな。
と、まあちょっと壮大な思いもあるのです。(笑)



2006-10-01
本日のお茶菓子は松江「三英堂」の銘菓『菜種の里』と京都「緑寿堂」のこんぺいとう、そして手作りの水まんじゅう。
差し入れに鎌倉「豊島屋」の『薪の舞』も頂いて、なかなか豪華なラインナップ



そのうち懐石とかもやってみたい。



プロフィール

hijiri

Author:hijiri
長年のITまみれな生活を経て、着物と煙管、和文化と美しいもの、酒と美食(B級)をこよなく愛する生活。
■日本の文化と”今”をつなぐ再実感マガジンJapaaanでライターやってます。
http://mag.japaaan.com/
■cafeglobe読者エディター、やらせて頂いてます。
http://www.cafeglobe.com/2013/06/030174cafeglobe_readers.html
■ミラーサイトはこちら http://ameblo.jp/hijiri-info

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