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2007-07-28

哀しい出来事

色々あって今はストップしているけど

(どこかで復活したいのが本音。どこかに月に一回でもいいよといって下さる優しい先生はいないものか)
茶道のお稽古をしていた頃にとてもとてもお世話になった先輩が、
先週、急にクモ膜下出血で亡くなられたと連絡が来た。


お友達と電話していて、受話器を握ったまま。
病院に搬送して一時は期待も、という状態になりつつも
そのまま逝かれてしまったそうだ。
私より年上とはいえ、まだまだ若いのに。


お茶の世界はルールや考え方がいろいろあるので、
やっぱりしんどいこととか面白くないこととかも多くて
この方がいなかったら
私はもっともっと早くにお茶の世界に見切りをつけていただろうと思う。


今もやりたいと思えるのはその方のおかげだ。




最後にお目にかかったのは、と考えて、またもや呆然。
ろくな挨拶もせず、でも縁が切れるなんて思わなかったのに。



今ものすごくショックです。。。。。

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2007-07-24

茶杓削り会

久しぶりの茶杓削り会に参加。


まー、毎回「久しぶり」なんて言ってるから、いつまでたってもうまくならないんだろーな(爆)



というわけで、今回の作品はこちら↓

20070722152817茶杓


久しぶりにしてはまあまあですが、やっぱりイマイチ次のステージに行けません。(泣)




本当は、終わった後に師匠やお仲間と飲みたかった旧交も温めたかったんだけどなー。
ま、それもこれもまた次回ってことで♪



2007-07-22

プラハ国立美術館展 「ルーベンスとブリューゲルの時代」@渋谷Bunkamuraザ・ミュージアム

あちらにいる頃に、機会がなく未訪問のままの街のひとつ、プラハ。

縁がなかったとはまだ言いたくないが、日本に帰ってきてしまった今、さらにかの街は遠く憧れる。

(ってのは大げさだが)



プラハ国立美術館展


渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた「プラハ国立美術館展ルーベンスとブリューゲルの時代」の招待券を貰ったので、そんなことを考えながら最終日に訪れてみた。

17世紀ベルギー北部フランドル地方から輩出された「フランドル絵画」は、オランダにいた頃に馴染みがあるものが多く、懐かしさも手伝って見応えのある展示会だった。


当時フランドル絵画の二大潮流だったルーベンス、ブリューゲルの作品は、どちらかというと大量生産品の走りで、一人の画家が精魂込めて描いた、というものとは一線を課す。

だからといって、けして作品それぞれが二流であるわけではなく、どちらかというと、得意分野を持ち寄って作った共同作品という意味合いが強く、それだけにバランスがとれているし、パワーがある。

一点モノに惹かれる気持ちは、今の日本でもないわけではないし、その込められた精神性を否定するモノはなにもない。けれども、それだけではたくさんの人間に観て感じてもらうことはできない。


ゴッホしかり、フェルメールしかり。

何年も経った今の評価を自分の目で確かめないまま、逝ってしまった画家は多い。



大量生産されたからこそ、師匠から弟子へ大きな流れと経済を生み出していった一派、その流れを順序立てて観るにはなかなか面白い内容だったと思う。

「認識されること」の重要性を、もしかして改めて感じることができたのかもしれない。



2007-07-15

今月の映画 「ブラインドサイト~小さな登山者たち~ 」


映画 ブラインドサイト


世界的に有名な盲目の登山家エリック・ヴァイエンマイヤーは、チベットのラサで盲人学校を設立した盲目のドイツ人教育家サブリエ・テンバーケンから、一通の手紙を受け取る。それが発端となり、盲人学校の6人の子どもたちを連れ、ヒマラヤ登山に挑むプロジェクトが始まった。
それぞれ過去を背負った6人の子供たち。想像以上の苦難の中、子どもたちを囲む大人たちの価値観の対立やそれぞれの思惑や悩みが浮き彫りになる中で、子どもたち、そしてそれをサポートする大人たちが得たもとのは?



チベットでは盲目であることが、前世で悪行をつんだこととイコールであるらしい。杖をつきながら歩く子供たちに、大人たちが罵声を浴びせるオープニングには怒りさえ覚える。
「蛇の呪い」だと言い切る親、全員が盲目のために寄り添うように生きている家族に向かって、役立たずは全員死んでしまえばいいと平気で言う親戚の人々。
「村一番の秀才だったのに、役立たずになってしまった」という言葉は、人ひとりの人生をつぶしてしまうには十分なほど重い。


そんな彼らに救いの手を差し伸べた、自身も盲目のサブリエ・テンバーケン。
そしてエベレスト登頂に成功した盲目の登山家エリック・ヴァイエンマイヤー。

彼らの思いは、6人の子供たちをチョモランマ(エベレスト)への登山への挑戦という一大プロジェクトにと発展する。

「頂上に立てたなら、きっと人生が変わるはず」





けれどもこの映画は、けして美談ではない。




険しい雪道を登っていく時間軸の中で、主軸として描かれるのは、「登頂」そのものが目的で、その感動を子供たちに感じさせてあげたいと願う登山家たちと、「チームワーク」を主眼におき、全員が頂上にたどり着けないのならば全員で下山することが重要なのだと主張する教育者たちの対立だ。
さまざまな問題や思惑の中、競争社会的と平等社会、西洋と東洋、母性と父性といった中での価値観のエゴの対立が浮き彫りになっていく。

そこにフラッシュバックされる、それぞれの子供たちの辛い過去や苦しい生活の状況。

救いたいと思う気持ちは同じなのに。


感情的になっていく、サブリエと学校運営のパートナー、ポールの姿と、厳しい山の現実を見据えて冷静になっていく登山家たちの葛藤。
けれども、残念ながら子供たちの”本当の”思いは、描ききれていなかったように思う。



・・・・・本当に、引き返して、よかったの?

それは、大人が「それが正しいことだから」と言ったからではなくて?


見終わった後のその疑問は、今だに消えることはない。




この試写会には終了後に舞台挨拶があり、プロデューサーの他に、なんとそのサブリエ氏とポール氏がチベットから駆けつけるという素晴らしい演出があった。
なぜか最前列どまん前に座っていたうえに、なんとかカタコトの英語くらいは聞き取れることもあって、生の彼らの言葉を本当に丸ごと感じることが出来たのだが、その中で感じたのは、やはり彼らの中には”平等”が主軸にあり、だからこそ、このような素晴らしい活動が(あえてボランティアとは言わない)できるのだということだ。

素晴らしい功績も含め、チャレンジする子供たちと一緒に険しい山に登り、なによりも感情的でヒステリックな部分も余さずにフィルムに撮らせたということだけでも、彼らは尊敬に値する。
けれどもやはり一人ひとりの子供たちを、保護する対象としてではなく、一人の人間としてみているのだろうか、という疑問が捨てきれない。
そんなことをしていたら、とても学校運営などできないという考えもあるだろう。彼らも十分に”子供たち”のことを考えているに違いないのだから。

けれども、私ならきっと「自分のせいで足をひっぱった」と思い悩むだろうと、思う。
もしかしたら、もっと高みにいけたのかもしれないのに。

それとも嫉妬にさいなまれるのだろうか。
自分だけができなかったと泣くのだろうか。

それでも、やっぱり私は、最後の三人だけでも「タシの山」へ行かせてやりたかった、と思う。
そんな風に感じる私は頂上に連れて行ってあげたいと願ったエリックたち登山者たちのように、「頂上を目指す」人間なのかもしれない。




正解はない。
だからこそ、考えさせられる映画である。

あなたなら、目の前に世界の屋根が見えているとき、素晴らしい偉業がその手でつかめる瞬間、目的と過程、どちらを選びますか?

2007-07-12

たぶん切なくて、このうえなく幸せなこと



”いい年”を何年もやっていると(笑)、時々若さ故のエネルギーがうらやましいことがある。



例えば、とにかく、欲しいものは欲しいと思いこめること。

例えば、それさえ手に入れれば、全てが変わると信じられること。


例えば、恋をしたら、その人を手に入れたいと、それだけを心から欲しがれること。





客観的に見ればまだまだ欲望の塊で、全然達観なんかしていない私だけれど、
それでもいつの間にか「好き」が「手に入れる」ということとイコールにならなくなって、随分経っていたんだな、と今さらながら思う。




誰かを好きになって、その人といい雰囲気になって、それでもはっきりと手に入れたと思えない時期。
相手がもしかして、自分の事を好きかも知れないと、そんな風に確かに感じられる時。
過去には私にもあったし(言葉にするとそこはかとなくむなしいな(笑))、その頃はそれが本当に苦しくてなんとかしたくて、でもそう思うことが間違っているなんて、これっぽっちも思っていなかった。


それが、この上なく幸せで切なく甘いことだったのだとわかったのは、いったいいつの頃だったんだろう。




それなりに大事な家族や友人を得て、それなりに人生を歩んでくると、
手に入れることが優先順位の中でそんなに上位にこなくなる。

例え手に入れたとしても、それが生きていくために絶対的に必要で、
それがなけれは生きてはいけないほどのものはそんなにないことに、いつの間にか気が付いたから。



今は、手に入れた後の影響や、対象が人間であればその人のことを考えてしまう。
それがもしも返せない思いだったなら、その「好き」はけして「幸せ」とイコールにはならないことも、たぶん知っている。

相手を苦しめることをあえて選べるのは、けして相手を愛してはいない。



恋は相手を手に入れたいと、欲しいとただそれだけを思うこと。
愛は相手が幸せであって欲しいと、それだけを願えること。



自分が幸せになりたい、から、
誰もが幸せであって欲しいと思ったときから、もしかして恋はできないのかもしれない。



それでもそれなりの幸せで生きていけるのが、経てきた人生のご褒美なのかもしれないけれど。













もしも、もしもだけれど、本当に誰かを心から欲しいと思う程、恋をすることがあったとしたら。



今の私は、例え具体的になにがあったとしてもなかったとしても、
きっとその思いを人生が終わるまで、端的に言えば墓まで(笑)持っていくだろう。
事実よりも伝えてしまうことの重さを、今では知っているから。

伝えないことが思いやり、そんな切ない時期が来るなんて、昔は思いもしなかったけど。
今の私には、いくらそんな機会が巡ってきたとしても唯一できることなのだ。

寂しいことだけれど。








あなたが好きだと、あなたが欲しいと、口に出すことができる、その切なくも幸せな時間の素晴らしさ。
できればその最中で気が付いて欲しいと心から願う。

命短し、恋せよ乙女。
どうかみんな幸せに。





2007-07-09

今月の映画 「ピアノの森」


映画 ピアノの森01


映画 ピアノの森02


田舎町へ転校してきた雨宮修平は、有名なピアニストを父親に持つ小学5年生。
早速ガキ大将に目をつけられたところを、同級生の一ノ瀬海(カイ)に救われる。放課後、修平を学校近くの“ピアノの森”へ誘うカイ。森にはグランドピアノがあったが、修平が弾こうとしても音が出ず、何故かカイにだけ弾く事ができる。カイの奏でる音色に激しく心を揺り動かされる修平。修平からカイの事を聞いた音楽教師・阿字野は森に入り、カイのピアノに心動かされる。翌日、阿字野から様々な曲を聴かされたカイは、その曲を森のピアノで弾くが、ショパンだけが弾けない。阿字野に教えを乞い、それと引き換えに、修平も参加するピアノコンクールへ出場することになるカイ。
練習に励む二人だったが、カイは聞かされた“阿字野の音”に心を乱され、自分のピアノを弾くことができないままコンクールの日を迎えるのだが・・・・・。



普通のサラリーマンだった父親は、なぜかピアノを弾くのが趣味で、家族の贔屓目だけでみても自己流としてはなかなか上手だった。
それだけならば家庭内BGMでよかったのかもしれないが、なぜか娘二人と連弾という野望を持ってしまったがために、子供の頃の私はピアノを習わされる羽目になった。

音楽自体は嫌いではないし、音感も悪いほうではなかったのだが、私はとにかくあのおたまじゃくしの羅列が嫌いで、結局中学でレッスンを辞めるまで8年くらい習っていたはずなのに、今だに楽譜が読めない(というか、忘れたといった方が正しいかもしれない)



つまるところ、子供の頃の私はピアノのレッスンが嫌いだったということだろう。




カイのように耳で聞いた曲をそのまま弾けたら、
幼かった私はもしかしてピアノが大好きになっていたのかもしれない。
そうしたら、もしかして今のようには生きていなかったのかも知れない。




子供は無邪気だと思うのは、大人の都合というか幻想だ。子供だからこそ、大人のように流せないからこそ、大きな期待や責任は想像以上に彼らの上にのしかかる。
それがいけないとも言わない。
ただそういうもので、彼らにとってそういう時期であると言うだけだ。


あえていうなら、大人がどのくらいそれに気が付いてあげられるか、くらいのことだろう。


修平の母親、カイの母親、どちらがいい”母親”かと言えばどう考えても修平の母親の方だ。けれどもその愛情や期待感がもしかしてプレッシャーになっていたことも、想像に難くない。


ピアノが楽しい、カイ。
ピアノが嫌いな、修平。


完璧な物は、重い。
よいものは、重い。

自ら、誰の為でもなく選びとることができるまで、その重さはけして減っていくことはない。




本当だったらとても楽しいことなのに。

そしれもしかして、大人の私たちも忘れていることなのかもしれないけれど。



今回は、主人公カイの声を演じた上戸彩ちゃん他、母親の玲子役の池脇千鶴嬢などの舞台挨拶付きの試写会だったのだが、まず思ったのが、「何故に千鶴ちゃんが母親役?」でだった。
やっぱり映画の中でも若いというか、若すぎというか(笑)、演技力はともかく、カイのような”少年”の母親の年代には聞こえなかったのは、まあ予想された結果ってやつか(苦笑)
少年に彩ちゃんの声というのは、最初はどうかなと思ったけれど、まあこちらはそれなり。
驚いたのが修平役の神木隆之介君で、舞台挨拶では子供子供した緊張ぶりにどんなもんかと思ったのだが、結構これがはまっていてうまい。
子供の役とはいえ、アフレコは普通の演技より難しいと聞いたことがある。将来が楽しみな役者さんかもしれない。


個人的には、最近多い俳優さんを声優に使って話題づくりっていうのは好きではないんだけどね。










ピアノに愛された少年と、ピアノを愛せなくなった少年。


言葉にすると陳腐だが、偶然の出会いが人生を変えることがある。
映画として続編が作られるかどうかは知らない(彼らのその後は未だに漫画として連載中だ)、そんな化学変化のような出会いのその後をちょっと見てみたい気がする。




プロフィール

hijiri

Author:hijiri
長年のITまみれな生活を経て、着物と煙管、和文化と美しいもの、酒と美食(B級)をこよなく愛する生活。
■日本の文化と”今”をつなぐ再実感マガジンJapaaanでライターやってます。
http://mag.japaaan.com/
■cafeglobe読者エディター、やらせて頂いてます。
http://www.cafeglobe.com/2013/06/030174cafeglobe_readers.html
■ミラーサイトはこちら http://ameblo.jp/hijiri-info

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